孤島の楽園西表島の誕生から歴史と人々の足跡と島の未来

沖縄県八重山郡竹富町に属する人口約2500人の有人島西表島。島を取り囲む東シナ海は、透明度も高く世界有数の景色が広がっている。

島の面積は、県内沖縄本島に次ぐ第2位であり90%が亜熱帯の自然林で覆われている。

海岸線付近以外は、ほとんど平地が無く人は住んでいない国有地である。

地場産業はというと、サトウキビ・パイン・マンゴー・米・野菜などの農作物と食肉用の牛の畜産も行われいます。

それ以外は、大自然を生かしたツアーや世界屈指のコバルトブルーの海でのスキューバーダイビングなど観光業が盛んである。

石垣島、竹富町内の離島を含む八重山諸島は年間多くの観光客が日本にとどまらず世界から訪れている。

シーズンのピークに時期には、多くの期間労働者も島に訪れるため、その時期には未登録の人口も増加する傾向にあります。

簡単では有るが今現在の島の状況はこのような感じである。

それでは、もう少し遡って調べられる範囲で島の歴史を紐解いてみましょう。

西表島に人が住みだしたのは、実際どれくらい前からなのでしょうか。これについては正確に残る記述は存在していないようです。

唯一の文献が当時の朝鮮半島に伝わる資料から発見されており、15世紀ぐらいの記述に西表に関する内容が記されている。

しかし、地層調査や集落跡などの調査により、それ以前にも人間の暮らしを彷彿と感じさせる跡も残っている。

現在でも残る、祖納集落や古見集落は島内でも少ない歴史が残る地域である。しかし、正確な資料はなく不確実な面も多くあります。

そういった島人による開拓も少なからず行われてきたはずです。

ところが、遥か昔の西表島は深い山の存在が、人々が暮らすためには不適合だったようであり、またマラリアによる被害が定住を妨げる要因になったのではないかと思われています。

このため、一時は作られた集落のようなものもマラリアによる人口減少の耐え廃村を余儀なくされた歴史もあるようです。今では医学の進歩により命の危険までは至らない病ですが、当時はとても恐ろしいものだったのでしょう。

そんな時代を繰り返す中、西表島を発展させていったのが、近隣の島や宮古島からなどの移住者である。

戦後、マラリアの被害も少なくなり要約人間の住める環境となり、多くの人々が島に移り住みます。

海岸線近くの土地を整備し、集落を形成していったのです。

前記述の二つの集落(祖納・古見)以外はほとんどが移住者により戦後に開拓されていったまだまだ歴史の浅い地域であるようです。

現在では県内のみならず、本土からの移住者もとても多く発展の途上を進んでいる。

古くから残る、沖縄独特の伝統や文化はそういったもの達で受け継がれていっています。

人が住む生活環境の変化のスピードはとても速く、定期船の確立に伴う人や物資の流れがそのような結果に繋がっているのでしょう。

人間が住みよい環境づくりや開発はどうしても仕方が無いところはありますが、同時に世界にも誇る西表島の大自然や貴重生物の存在をも大切にしていかないといけません。

これは現在島に住む人々やこの先移住してくる者、さらに観光などで島を訪れる人々の共通する課題になっていくことでしょう。

家庭のカレンダーも旧暦版表示、沖縄と旧暦の深~い関わり

西表島を含む沖縄は非常に旧暦の生活リズムが色濃く残っています。

多くの行事ごとなどは、現在でも旧暦に合わせた日取りで行われています。

各家庭にあるカレンダーも新暦と旧暦の両方が記されてるのが一般的になっています。本土ではほとんど無いと思います。

それぐらい、島の人々と旧暦とは生活に深い関わり現在でもあるといえるのでしょう。

では、そもそもなぜ現在に至るまでも、旧暦が根強く残っているのでしょうか。

様々な要因があるかと思われますが、いくつか考えて見ましょう。

代表的な理由の一つは、古く琉球王朝の時代から中国の文化の影響を非常に多く受けてきたことにあります。

この旧暦の発祥は中国にあります。月の満ち欠けの運動を参考に作られました。その証拠に”中国暦”と呼ばれることもあります。

いわゆる、太陰暦にあたるわけですが、この太陰暦を参考にし、季節の変化を測り、苗植えや種まきの時期、漁のタイミングなどを予測していたと思われます。

この琉球王朝は、暦だけではなく、いろいろな文化やモノ、芸術、技術などを中国から学んできた事実が歴史上残っています。

いかに中国との貿易が琉球に影響を及ぼしてきたのかが分かりますね。

もう一つ、根強く旧暦が使われた理由は、沖縄が海に囲まれた島国たっだからではないかと考えられます。

海の変化、台風などの大きな災害、南国ならではの天候の急激な移り変わりなど、自然現象を図り予想するには、旧暦の月の運動がどうしても必要だったからではないかと思われます。

そういった人々が生き残ってゆくための一つの手段として、旧暦のリズムが必要不可欠となっていき、独自の文化となり根付いていったのでしょう。

とくに旧暦のリズムを重んじている人種が海人です。

旧暦は、前述の通り、月の運動を参考に作られています。これは海の潮の満ち干きと連動した動きになっています。

いつ潮が満ち、いつ潮が干くのかをわかっていなければ船は出せません。命にも関わる重要なポイントです。

まさに旧暦のリズムは、その海の運動も的確に表しているのです。

新月→1日 満月→15日 新月→1日と新月から新月の期間を1ヵ月とはかり、1日にかけて行われる潮の満ち引きの運動を割り出し、漁を行っていたのです。

これは、今の時代の漁師さんも当然の知識として頭に入っていることですね。

新暦に比べて、非常に自然の摂理に近く寄り添った時の流れを感じることができるリズムです。

本来人間も自然界の住人として、地球の呼吸にあった、自然と調和した生活を求めていくべきなのかも知れませんね。

それが、西表島の人々の生活の中に残っているという事になりますね。

年中行事もそうですが、今後も島人が自然とともに生きていくうえで、両者を繋ぐ大切な営みを表しているものが旧暦にはあるのでしょう。

新暦で行われている多くの行事も、本来の意味を見直すと間違った時期に行われているのも多くある可能性はありますね。

新暦を否定するわけではありませんが、生き物らしく生きていくには、本来旧暦が適しているのかも…。

移民の歴史を振り返る、血が繋ぐ集落発展の歴史を紐解く

沖縄県西表島。面積289.61㌔平方メートル、沖縄県内では沖縄本島に次ぐ2番目の広さである。

西表島・竹富島・鳩間島・黒島・小浜島・波照間島・新城島・由布島の有人島といくつかの無人島からなる沖縄県八重山郡竹富町に属す島です。

人口は約2,500人。島全体の90%が亜熱帯の自然林であり、起伏に飛んだ地形で海岸付近以外はほとんど平野は無い。

客船が入港する港は2つあり、西部地区の上原港、東部地区の大原港である。

現在集落は、西部地区は船浦・上原・中野・住吉・浦内・干立・祖納・白浜・船浮の9つ。東部地区は、豊原・大原・大富・古見・美原の5つである。

地場産業といえるものは少なく、パイン・マンゴーなどの果実類、サトウキビを原料に黒糖などといったものがあります。

国の特別天然記念物の指定を受けているカンムリワシやイリオモテヤマネコ、天然記念物のセマルハコガメ、サキシマハブなどの貴重生物が存在する。

生活者の多くは観光関係の職に属しており、島を取り囲む海や奥深い大自然が世界からの観光客の呼び込む要因になっている現状がある。

島の位置からして、毎年台風の通り道に存在しているため、夏から秋の間は毎年被害が少なくありません。

しかし、台風慣れしているせいか、大型台風が通過する割には人的な被害はほとんど無く、やり過ごしている。

現在では、人口的な面で見ると大幅増加や減少は見られず、ほぼ横ばい状態が続いている傾向がある。

春先から夏の終わりまでの観光トップシーズンには季節労働者も全国各地から集まり、一時的な人口増加は通例のことである。

では、現在に至るまでの西表島の歴史を見ていきましょう。

もともとマラリアなどの健康被害により人間が生活を営むのに不適であったため各集落としての歴史は非常に新しい。

唯一現存する、西部地区の祖納と東部地区の古見の2つの集落だけが例外である。

一旦は人が住み着いたが集落自体発展にいたらず廃村になった集落もいくつかあったようです。

古見集落では、1678年に造船所があり、一時は1000人近い人々が暮らしいたという記述も残っている。今から340年程以前の話である。

琉球王朝時代には、祖納集落が政治の中心であり周辺の離島にも力が及んでいた歴史もある。

1800年代後半には、本土からの企業が炭鉱発掘事業の一旦で島に労働者を多く送り込んだが、こちらもマラリアの被害で、数年で撤退に至っている。

1900年代前半、第二次世界大戦末期ごろにも、石垣島や波照間島からの強制疎開が行われたが多くの住民が再びマラリアに感染し死亡。これにより島全体に対しての計画的な開発が中断するに至った。

結果的に島の貴重な自然が保護される形になった。

医学の進歩や環境的な変化に伴い、今から70年ほど前から宮古島からの本格的な移民が島に訪れるようになり、荒れ果てた土地を開発。

何もな無かった土地に家を作り、集落を形成し、農作物の生産を開始し生活の幅を広げていったようです。

現在存在する集落に古くから住む家の住人たちは、その時代移民したものの2世が多く、各政の中心になっています。

何も無かった土地を自分たちの手だけで掘り起こし、簡単ではなかったはずの島の発展につなげた宮古島の「アララガマ精神」は今も子孫たちにより島の発展を支える重要な役割を担っている。

全員仮想で先祖と踊ろう!あの世からの使者奇怪アンガマ行列

アンガマとは旧暦のお盆(旧盆)の時期に、その集落内にある家々を回るあの世からきた使者のことをいいます。

アンガマたちは複数で列を組み、サングラスやマスクをつけ変装して行列となって回ります。そして、訪れた先では太鼓や三線などを使い踊りや歌を披露していきます。

これは、アンガマたちが子孫繁栄や五穀豊穣を願い、祈願しているといわれています。

当然、本来は本物の使者が島を訪れるわけではありませんので、地元の青年会などによりアンガマ行列が再現されます。

基本的にはアンガマたちが話す言葉はすべて八重山の方言が使われています。

このアンガマ行列を率いて指示する役目を担っているのが、木彫りのおじいにお面をつけた”ウシュマイ”とおばあのお面をつけた”ンミ”呼ばれる二人です。

訪問先でみせるこの二人のやり取りが、なんとも言えない風情がありとても場が盛り上がります。

二人の一番の見せ所といっても良いのかも知れません。

その他が変装して演じるわけは、お盆の送りの日に素顔がばれていると、本物の霊たちと一緒にあの世に連れて行かれてしまう為といわれています。

旧暦の7月13,14,15日に行われるため、月の明かりで外も照らされる中、行列を組みにぎやかに練り歩く姿はとても神秘的なものにさえ感じます。

先ほど説明したとおり、訪れた先々でのやり取りはすべて方言で行われているため、実際のところは話している内容までは理解できません。しかし、言葉のリズムやオーバーなアクションで理解できなくても笑えてしまう不思議なところがあるんですよね。

この、ウシュマイとンミ以外のメンバーたちは集落や訪れた家先では、あの世の言葉としてすべて裏声を使い場を盛り上げています。

また、全員で息のあったダンスなどを披露することもあります。これも参加するものたちが、毎夜集まり練習し精度を高めています。

もちろんこの慣わしは伝統的な行いではありますが、島ではとても人気があり盛り上がるために地域外からこのアンガマ行列を歓迎した依頼も増えつつあるようです。

地域の老人ホームや幼稚園や飲食店など、時間があえば訪問してくれることも可能になっています。

その際はいくらかは謝礼を支払い、それが青年会の貴重な活動資金になっていきます。そのように上手に循環していくのです。

青年たちも日頃の練習の成果を披露できる場所であり、皆さんが喜び楽しむ姿を見れるのは苦労も吹っ飛ぶことでしょう。

島に根強く残るご先祖様を崇拝する思想が、このようなあの世とこの世を繋ぎ、ともに楽しもうという行いを継続的に受け継がれることになったのでしょう。

先立たれたもの、また残されたものが、それぞれ暮らす世界で明るく楽しく生活する姿を確かめ合うことによって、繁栄は永遠に続くというメッセージを送りあっているのかも知れませんね。

一見、オチャラけた行事の様に聞こえますが、実際の場を体験してみると随所に神聖さを感じることは経験上間違いありませんので、機会ができればぜひ足をお運びくださいね。

神秘!マングローブの暮らし続ける生き物と自然のリズム

西表島は大小合わせて26個の川が流れている。

比較的起伏にとんだ地形なため、水資源は豊富である。近隣の離島に海底パイプで生活水の供給も行っている。

特に西部地区に注ぎ込む浦内川は、県内最長であり水量が豊富な2級河川である。

多くの川の下流の汽水域では、広大なマングローブ林が見られます。

この西表島で見られるマングローブを形成する植物の種類は多種にわたっていて、日本産7種類すべてが確認できるのはここだけである。

因みにその7種とは、メヒルギ・オヒルギ・ヤエヤマヒルギ・ハマザクロ・ヒルギダマシ・ヒルギモドキ・ニッパヤシである。

汽水域に群を形成しているため山からと海からのミネラルを同時に含み、生き物たちにとっても有利な環境になっています。

また、特徴的な支柱根が広がる林の構造を複雑にしており、生き物たちが身を隠すのに適した状態を作り上げています。

このマングローブ林に住む生き物たちをご紹介していきましょう。

オカヤドカリ・ムラサキオカヤドカリ…通常ヤドカリは水中で暮らしていますが、オカヤドカリは生活の大半を陸上で行っています。
ミナミトビハゼ             …マングローブ全体の潮が引くと姿を現します。ぴょんぴょんと飛び跳ねながら移動します。島では「トントンミー」の愛称で人気があります。
シレナシジミ …日本最大のシジミ。大きいものでは10センチ以上になるものもあります。
シオマネキ …片側にだけ大きなハサミを持ち、潮を招くような動きでハサミを振っています。
ヒルギハシリイワガニ …名前の通りヒルギの支柱根を行ったりきたり動き回っています。
ミナミコメツキガニ …干潟の中ほどに多くの固体と一緒に群れを成しています。近づくと一斉に砂の中に身を潜めます。
ノコギリガザミ …甲羅の淵が鋸の刃のような形状をしています。島では食用として広まっています。
キバウニミナ …黒く細長い巻貝。昔の人たちはつりの餌にしていたとも云われています。

これらの生き物はマングローブ群自体を住処にしており、潮の干満運動による環境の変化にも十分に対応し、生活を行っている。

満潮時には、支柱根が隠れるほど海水に浸ることになります。その結果、海からの魚たちも汽水域まで上ってきます。捕食活動をしたり、産卵したりと多くの生き物たちにとって活動の場になっています。

また、マングローブ林の陸上側を観察してみると、イリオモテヤマネコ・リュウキュウイノシシなどの哺乳類、カンムリワシなどの鳥類、小さな昆虫類などの姿も頻繁に見られます。

西表島に生きる生き物たちにとっては、このミネラルなどの有機物を多く含み、天敵から身を守る構造も構築されているマングローブの林は命を育み繋いでいく上で無くてはならない特別な環境であることは間違いありません。

日本でも見られることの無い貴重な環境を、人々の手で破壊するのはもってのほかで、西表島でもマングローブ自体が観光地の一つになっていますが、自然に配慮し、生き物たちに悪影響を及ぼすことなく、共存の暮らしをしていく必要があり、今後大きな課題になっていくでしょう。

天然ジャングル、ここは本当に日本か?ピナイサーラの滝

東京から約2,000キロ、沖縄本島から約400キロ南西に位置する西表島。

島面積は、県内沖縄本島に次ぐ2番目の広さを有しています。島全体の9割が亜熱帯性の自然林で覆われてます。

まだまだ手つかずの自然が多く残っていて、貴重な生物も多数いて東洋のガラパゴスという呼び名も頷けます。

地形は山が多く、古見岳469.5m、テドウ山441.2m、御座岳420.4mと県内では標高の高いクラスに入る山が存在している。

さらに川筋も何本もあり、山の奥深くから壮大なマングローブを通り海へと流れ出ています。

山から海までの川筋の途中には、急な斜面の地形も多くあり、いくつもの滝が形作られています。

日本の滝100選に選ばれているマリユドュの滝、神の座といわれるカンピレーの滝、現在観光の目玉として年間数多くの人々が訪れるピナイサーラの滝。

深い森の中にあるそれぞれの滝は、爽快で見るものを癒すと共に大迫力の存在感を感じることができます。

今回は、屈指の観光地となっているピナサーラの滝をご紹介していきましょう。

地図上で見ると、ちょうど島の中心から真北に位置し、地区にすると島内の西部地区に属する位置にあります。

島を通る県道215線からも森の濃い緑色の合間を流れ落ちる滝の白筋を肉眼で確認ですることができます。特に大雨の後にはより滝幅も広くなり滝つぼに注がれる際の音まで聞こえてきそうな勢いになります。

落差は55メートルと沖縄県最長であることも観光として人気の理由の要因であると考えられます。

ピナイサーラという名前の由来は、ピナイ=ひげ、サーラ=垂れ下がる、の意から成り、遠くから見ると”老人の垂れ下がった白髭”に見えることからこの名が付いたとされています。とてもボキャブラリーに優れたネーミングですよね。

滝上から眺めは目を見張るものであります。エメラルドグリーンの東シナ海が一望でき、お隣「鳩間島」、珊瑚の島「バラス島」もはっきりと確認することができます。

やはり滝つぼまでの55mという高さは、滝上から下を望むと足元がすくわれる感覚になり、ちょっとした恐怖感さえ感じることになります。

さらに眼下に広がる広大なマングローブも、世界有数の規模であり見るものを圧巻します。

このマングローブの中をカヌーや近年ではSUPで漕いで滝を目指す道のりも、ピナイサーラの滝が観光客の中で人気のある大きな理由の一つであることは間違いないでしょう。

滝壺では、55mから注がれるマイナスイオンを全身に浴びながら、優雅に浮き輪で遊ぶ姿も多く見られます。場所にっては水深も深く、囲まれた岩から一斉に飛び込む人々も見ることができます。

西表島の大自然が作り出すこの壮大な滝ピナイサーラ。滝を取り囲む深緑、マングローブの林の中を縫う様に流れる川。この全ての風景が都会からやってくる人々に、非現実的な感覚と癒しを感じさせてくれているのでしょう。

何万年と続く島の自然の営みが、こういった形で現代に生きる人々の生きる活力になっているのですね。

多様性は世界クラス!西表島の貴重生物まとめてみよう!!

沖縄本島から南西約400キロに位置する西表島は、島の回りをミネラル豊富な温暖な海に囲まれ、奥深い大自然で覆われる地形は多くの生物の繁殖活動にとって最適な環境を作り出しています。

またこの特別な環境が世界的に見ても貴重な存在の生き物たちの命を育む結果となっているのは事実である。

イリオモテヤマネコは誰もが一度は耳にしたことが有るほどの有名な特別天然記念物ではあるが、そのほかにも本当に多種に亘る生物が確認されていると同時に、未だに名前の無い未記載種も多くいる。

人間たちが生活を営む海岸線に関しては、土地開発が行われ生き物たちが生きていくためには不適合な環境になってしまっているが、島全体のほんの一部にしか過ぎません。

その他多くは未開発の森林が広がり、そういった古代からの環境が生物の多様性を結果的に作り、現代まで育んできているのであろう。

では、全てとまではいかないが西表島に存在している多様性に優れた貴重な生き物たちをご紹介していきましょう。

・イリオモテヤマネコ
 国の特別天然記念物。レッドリストの絶滅危惧IB類。西表島にのみに生息。役100頭が確生存。
・カンムリワシ
 国の特別天然記念物。日本では石垣島・西表島・与那国島の3島のみに生息。
・ヤエヤマセマルハコガメ
 国の天然記念物
・キシノウエトカゲ
 県の天然記念物に指定。
・リュウキュウイノシシ
 西表島に生息する類は、純血種のみ確認
・サキシマキノボリトカゲ
 記念物指定は無いが絶滅のリスクが高い生物。
・リュウキュウキンバト
 国の特別天然記念物。県の絶滅危惧種に指定。
・ヨナグニサン
 県の天然記念物に指定。
・オカヤドカリ
 国指定の天然記念物種6種のうち、5種が西表島に生息。

以上が国の指定を受けたりしているものであり、そのほかにもまだまだとても同じように記念物クラスの生き物たちが生息しています。

名前を持たないものや、生物学上未知の生物も存在しているのではないかとささやかれている。

これは冒頭説明したとおり、島の大自然が生み出す賜物であり、歴史的な理由から人類による人類のための開発が運よく行われてこなかったことによる、産物であることは間違いありません。

海に囲まれ、多種を寄せつけなかった環境が固有の種の繁栄を色濃くしてきたのでしょう。

生き物たちにとっても限られた環境であり、決まりごとのように守られてきた食物連鎖の関係が長きに渡り育まれているのです。

この先、地球規模の大きな気候の変化も考えられ、生態系に悪影響を及ぼす可能性もあります。しかしその要因が我々人間にあってはなりません。

人間も云えば自然界の一員であり、決して自分たちだけの都合だけで環境を壊すことは許されないのです。

ともに地球という限られた資源を使い生きている生き物として、お互いの存在価値が継続できる環境を保全していかなくてはなりませんね。

人間のエゴだけでこの西表島のような貴重なフィールドが縮小されない様に願います。

島の主、特別天然記念物イリオモテヤマネコと暮らす人々

国の特別天然記念物にも指定されているイリオモテヤマネコ。深く謎に満ちた西表の亜熱帯林に大昔から暮らす、島の生き物の頂点に君臨しているといっても過言ではない存在かもしれません。

その生態は多くが解明されておらず、生物学者の中では特に興味がそそられる対象となっています。

もちろんネコ科に属するわけですが、長い間野生として西表のジャングルで子孫を残してきた固体は、生命力に溢れ、なにか人間さえも寄せ付けない特別なエネルギーを感じます。

正式な資料によると、実際に固体が確認されたのが今から約50年前の1965年。西表島の固有亜種であり、ヤマネコ種が生息する面積としては世界最小である。

その為、何百年もの間どのように捕食し繁栄活動を行ってきたのか謎が多く、西表島のような小さな島に肉食獣自体が住んでいること自体奇跡だといわれています。

西表の自然林の中には、天敵といった天敵は存在せず、一匹一匹が縄張りのようなものを保有し互いに生活している。

そんなイリオモテヤマネコだが、唯一の天敵が人間ということになる。悲しいことではあるが結果としてそうなってしまっています。

もちろん、天敵がいないからといって無限に増えていくものではなく、縄張り争いや動物特有の病などで命を落とす機会あるだろう。

しかし、島の人口が増えるにつれ、ヤマネコにとっての生活圏が失われている事実は否めない。

現に、死亡例の多くは車に引かれているのが原因である。

もちろん、わざとでは無いにしろ、人間の生活が大きな影響を与えていることに変わりは無い。

本土からの移住者が増え、今まで山だったところを切り開き住宅にし、今まで道路が無かったところに道路を作り、どんどん人が住みやすい環境が作られていく。

逆に言うなら、今までそこを生活圏にしていた生き物たちが追いやられていくことになっているのです。

また移住者たちが持ち込んだ、飼い猫や飼い犬などに捕食されてしまったケースも、多くはないが報告されている。

近年ではそういった貴重な生き物たちを人の力で守っていこうという運動も活発かしてきました。

目指すは共存ですよね。どちらかが出て行けばよいというものではないのです。

島を愛するもの同士の敬意と尊重を示していかなくては未来はありません。

むしろ、後からこの島に住み着いたのは人間のほうなのだから。人間だけの便利さの追及や発展はエゴそのものです。

人間らしい知恵を出し、人々とイリオモテヤマネコに始まる生き物たちが、同時に住みよい環境を作っていこうと。

そのような活動が、世界から見ても魅力ある島作りになって行くことでしょう。

今の時代だからこそ、山、川、海と広い視野を持ち、人間にとって生きる資源である自然を大切にし、地球という同じステージで生きてゆくもの同士、同時に発展の道を歩んでいかなくてはならないのです。

日本の南の果ての西表島で、何百年と命をつなげてきた、イリオモテヤマネコという生き物から人間の未来への希望を学んでいるのです。

珍味!琉球イノシシ(カマイ)の刺身を食べる島人達の暮らし

西表島は島の90パーセントが亜熱帯の自然林で構成されています。さらにそのうちの10パーセントは、人間が未だに足を踏み入れていない未知の領域だとされています。

いかに、奥深く険しいジャングルなのかが想像できますね。

その中に住む哺乳類は、イリオモテヤマネコ・リュキュウイノシシ・ヤエヤマオオコウモリ・カグラコウモリなどが代表的であります。

この中でも、現在でも食用として島の人々と関わりが残っているのが、リュウキュウイノシシであります。

島ではこのイノシシのことを”カマイ”と呼んでいます。

日本には、ニホンイノシシとリュキュウイノシシの二種のイノシシが存在しています。

リュウキュウイノシシの分布範囲は、奄美大島や徳之島などの奄美諸島から、沖縄本島、石垣島、西表島の沖縄諸島にかけて確認されています。

ニホンイノシシに比べて、小柄なのが特徴であります。

この生息地域の中でも、特にリュウキュウイノシシにとって、生きる環境が最も適しているのが西表島になり、その他の地域は土地開発などによる環境の変化から個体数がいちじるしく減少傾向にあります。

また、西表島に生息する個体は、古くから唯一の存在となっており異種のイノシシや豚などとの交尾が無く、純血のリュウキュウイノシシと認識されています。

その為、食し方も独特であり、その他の地域では確保した肉を焼いたり、牡丹鍋といった形で煮たりする調理法を取っていまが、純血で菌が少ないため、生で食べる文化が根付いています。

この、イノシシの肉を刺身(生)での食し方は、西表島特有の食べ方になっています。臭みもまったく無く、赤ピンクの肉色は綺麗で、はじめての方でも問題なく食べられると評判も上々です。

一度、西表島に足を運びお試しになられることをオススメします。絶品ですよ!

それでは捕獲の仕方を見てみましょう。

西表島では手作りの罠を仕掛けて、イノシシを獲ります。

日本全国のイノシシの狩猟期間は、毎年11月15日から2月15日と定められていて、西表島も例外ではありません。

毎年、狩猟免許を取得し、しかるべき講習を受けたものだけにその権利が与えられています。

西表島での個人の狩猟範囲の決め方は独特で、ほとんどが国有林になっている為、個人の山は無く通常ではなかなか割り振ることができません。

しかし、国有林として定める遥か以前からの生きる営みであるため、代々、親から子へ、子から子へと受け継がれてきたのです。

その為、単に狩猟の資格があるからといって、勝手に山で猟をすることは許されません。ある時期に受け継がれるものなのです。

これにより、無駄な乱獲や商売のための狩猟を制限しているのです。

島の恵み、限られた資源を大切にしているからこその伝統です。

罠にかかり確保したイノシシを持ち帰り、猟師自らが解体します。もちろん、地域の保健所にはしっかりと届出を出し許可を得ています。

骨と各部位にきちんと分けられ、保存されます。

毎年、初猟の祭には猟師仲間や家族に獲れたてのカマイの肉を振舞います。これは、山に対しての感謝と猟期期間の安全を祈願した恒例儀式のようなものです。

島の住人たちにとっては、生きるために必要な貴重な食料であったとの歴史があるのです。

私たちも、食べものを口に入れるときは、”命をいただきます”の本当の意味をかみ締めていかないといけませんね。

ハイハイ歩きでタンカユーエー、満一歳で将来占おう!

西表島のあかちゃんのお祝い事で”タンカユーエー”というものがあります。

これは生まれて一年が経過した赤ちゃんのお祝いで、すこし離れた場所に、お金・赤飯・そろばん・本・鉛筆などを並べ、ハイハイ歩きの赤ちゃんが手に取ったものによって将来を占うというものです。

近年では、かなりユーモアなアイテムを並べる家族も増えてきていて、とても楽しいイベントとなっています。

しかし、イベントとはいえ神聖な儀式。仏壇や火の神様(ヒヌカン)にお供え物をし、家族、子供の健康繁栄をお祈りする所から始まります。

やはり、神様とご先祖様はとても大切な存在であります。

その後、家族、親戚一同、友人達が見守る中、満一歳の赤ちゃんによる品物選びがはじまります。

一生懸命、ハイハイする姿はなんともいえない様子で、集まった人たちにも自然と笑顔がこぼれます。

何を手にとるのかなぁ~。ここでそれぞれの意味を見てみましょう。

・お金   → お金には困らない人生を送ることができる。
・赤飯   →食べるものには困らない人生を送ることができる。
・そろばん →商売に才を見出す人生を送ることができる。
・本     →頭が良くなる。
・鉛筆 →公務員や役人になれる。

これにプラスして、女の子の場合はハサミも並べたりします。お裁縫が上手になるようになどの願いも込めて。

これだけ見るだけで、どれを手に取り、どんな人生を歩んでいくのかとても楽しみになってきますね。

このほか、西表島では生まれて100日目の「百日祝い」もあかちゃんのお祝い事としては重要なものにラインナップされています。

意味合いとしては、お披露目会としてというのが強いですが、参加してもらえた人々に代わるがわる抱っこをしてもらい、厄を落としてもらうという厄払いの行為でもあります。

西表を含む沖縄の文化には、赤子と老人をとても大切に扱う風潮があります。とてもすばらしいことですよね。

子は宝であり、もちろん親は存在しますが地域みんなで育てていこうという暖かい気持ちがとても表れています。

そのため、大きく成長した子供たちも島に地域にとても感謝し、心ある人間に育っていくわけです。

大昔、島全体に困難な時代が多々あったと思われますが、そういった結いの精神で命を繋げていったのでしょう。

現代にも残るその文化は、特に大切にし永遠に続けていかなくてはなりませんね。

少し余談ではありますが、出産の内祝いのお返しをご紹介しておきましょう。

お返しとしていただき品物はごく一般的ではありますが、珍しいのは泡盛のボトルに生まれた赤ちゃんの写真を貼り付けたオリジナルボトル。

泡盛ですので、腐ることなく熟成されてどんどん味わい深いものになっていきますね。

そして、お返しのものと一緒に頂くのが、命名札。これはほぼ必ず付いてきます。

もらった方々は、家の壁に張り付けたりして大切に保管します。多い方では何百枚と貼り付けている方もいますよ。

生まれた日、名前も分かり、他人の子ですがとても愛着がわいてきますよね。

人数は多くないですが、西表で生まれた子供たちは地域の人たちに歓迎され、たくさんの愛情に包まれ大きく成長していくのです。