Monthly archives: 11月 2016

97歳で童心に帰ろう、カジマヤー集落みんなで大パレード!

西表島を含む沖縄県では長寿を祝う行事が数多く行われています。

長寿に対しては尊敬の意味と、とても縁起の良いものだという風潮が文化として根付いています。

12年に一度巡ってくる生まれ年の際には、毎回生年祝いとして家族や地域の人々から祝福されます。

この生年祝いを島では”トゥシビー”と呼びます。

特に長寿を祝うトゥシビーである、満60歳の還暦祝い、数えで73歳の古希のお祝い、数えで88歳の米寿のお祝い、などはとても大切に行われてきた文化があります。

現在では60歳というとまだまだ元気でこの先長いような時代になりましたが、昔は60歳まで生きる人は本当に少数だったはずです。

このトゥシビーの最高齢のお祝いが、数えで97歳になった時に行われる”カジマヤー”というイベントです。

カジマヤーとは風車の意味で、人間は97歳になると童心にかえり、再び風車のような子供のおもちゃで楽しく遊ぶようになると言い伝えられています。

これは一説では、現在のいわゆる認知症の症状を指していると考えられているようです。当然、当時は認知症という言葉はありませんので行う行為そのものが語源になったと思われています。

カジマヤーのお祝いは旧暦の9月7日に行われます。もちろんその年に数えで97歳を迎える方が存在しない場合は行われません。

実際長寿の国沖縄でも大変に珍しく貴重なことになっています。

お祝いの仕方はというと、かなり特徴があります。島では軽トラックや島に数少ないですが走っているオープンカーなどに、たくさんの風車や手作りの装飾品で飾り付けをします。

その華やかな車に、これまた綺麗に着飾ったご本人が乗り込みます。赤いちゃんちゃんことまでは言いませんが、赤色の派手な沖縄衣装を身にまとう姿も多々見られます。

同時に孫や近所の子供たちが乗り込み、より華やかさを演出する場合もあります。

そして集落全域をゆっくりパレードして進みます。沿道に集まった地域の方やたまたま居合わせ観光客などから祝福の拍手を浴びせられながら、手を振って応えていくのです。

小さいころ初めて乗り物に乗って楽しんだ子供のように、風で勢い良く回転する風車を持ちながら、しわくちゃの笑顔ではしゃぐ光景は、見る者全てをも楽しくさせます。

とても縁起のよいお祭りなので、長寿にあやかって健康で長生きできるような気分にもなり、本人だけではなく、多くの人たちや地域全体がとても待ちわびたイベントの一つになっています。

当然のことですが、何年かに一回、地域によっては何十年の間に一回行われるかどうかのお祝いですので、行われた際には地元の新聞の一面を飾ってとりあげられる程の大変珍しいことなのです。

島に根付く、97歳を迎えると人は童心、子供にかえり、また新たな人生がスタートされるといういい伝はとても夢があり、長寿を素直に心から祝福することのできるありがたい文化だと思います。

こんな素晴らしい心の文化は、この先消えることなく残して生きたいですね。

旧盆も家族みんなで盛大に!歌って踊って先祖と楽しもう!

西表島に暮らす人々の生活のリズムは、現在使用されている新暦と明治時代初期まで使用されていた旧暦が入り混じったものであるといえるかもしれません。

もちろん、行政的なものや学校関係、職場などのメインの生活リズムは新暦に沿って営まれています。

しかし、昔から続く行事や伝統的なお祭りなどは当時のまま旧暦の日取りに合わせて行われるものも多くあります。

今回はそのうちのお盆行事について見ていきましょう。いわゆる旧盆ですね。

行われる日取りは、旧暦の7月13、14、15日の3日間です。

もともとお盆は、代々のご先祖様の霊を家に招き、感謝の気持ちを伝え五穀豊穣を祈願するための行いごとです。

13日は、”ウンケー”と呼ばれ、仏壇や位牌を綺麗に掃除して清め、新しい花をいけ、飾られたちょうちんにも明かりを灯し、ご先祖様の霊を迎え入れる準備をします。

仏壇の周りには、島の果実や野菜などの恵みを並べます。

またお供え物して、しょうがを使った料理を並べる風習もあるようです。しょうがの強めの匂いには、霊に宿る邪気を振り払う作用があると言い伝えられています。

ここが始まりで送りの15日まで、ご先祖様たちのお世話を行います。

中日の14日には、自分たちの本家や関わりのある分家に訪れお線香をあげます。この日に関しては特に決まった行いは無いが、お仏壇には一日三度食事を取替え、花やお水の交換もし、居心地のよい環境を維持しもてなします。

与えられる食事の内容はというと、一例になりますが、朝食はおかゆ、とうふのお味噌汁、ゴマを使った酢の物など。お昼には冷やしソーメンが一般的である。理由は不明。夕食は白米、汁物、大根や昆布などの煮物、酢の物などがならびます。

そして、送りの15日。西表島では”ウークイ”と呼ばれます。この時も絶やすことなく一日三度の食事を用意します。

朝食と昼食に関しては中日と同じような献立になります。おやつなどが加えられる程度です。

最後ウークイの夕食には、お餅と御三味を使った、ウークイ料理が供えられます。

送り日のウークイだけは遅めの時間から始まります。これはあまり早い時間に済ませるのは、ご先祖様の霊たちに対して失礼だとされているからの様です。

仏壇に線香をたき、ウチカビと呼ばれる紙銭を燃やします。この行為はあの世に戻られるご先祖様たちがお金に困らないようにするためです。

このウチカビを燃やしたり、全体の流れを取り仕切るのは必ず長男の役目だとされています。

そのほか、アンガマ行列と呼ばれる、あの世から来た霊を模倣した集団が集落全体を練り歩き、招かれた各家で、儀式を行います。

この行列は太鼓や三線などを使い、とても賑やかに演じお盆行事に華をそえます。

島での旧盆の行いは、先立たれたご先祖様たちをもてなし、残された子孫たちが共に明るく楽しく過ごす三日間なのであります。

子孫たちが楽しく現世を生きる姿を確認して、安心して再びあの世に帰っていくのです。

先祖も安心、親戚一同お墓の前で大盛り上がり清明祭!

清明祭、あまり本土では知られない言葉ですが、方言で”シーミー”と呼ばれています。

これは旧暦の3月初めごろに行われ、先祖供養の大変大切な年中行事です。

歴史としては、西表島を含む八重山地方よりも沖縄本島を中心とした離島で特に盛んに行われているようです。

沖縄全体では、先立たれた先祖をとても大切にする思想が強く、墓前で行う行事ごとも数多くあります。そんな中においても清明祭は特に盛大に行われる風潮があり、いかに重要視されているものかが理解することができます。

清明祭はもともと中国から伝わったとされています。いわゆる二十四節気の清明節に合わせて営まれるものである。

家族、親戚一同、子孫たちが墓前に集まり、日頃なかなか食卓に並ぶことにない豪華な食事や綺麗な花、島酒(泡盛)を持ち込み、歌や踊りで宴を開きます。

先立たれた祖先たちを前に、子孫たちの健康で不自由なく楽しく暮らす姿を見せることにより、安心してあの世で暮らしてくださいというメッセージも込められています。

また、今の自分たちの命があるのはご先祖様たちのおかげという事を認識し、心から感謝する大切な機会でもあるのです。

では、墓前に持参し宴会に華を添える重箱料理の中身を見ていきましょう。

こういったご先祖供養の祭のお重は4段お重が定番で、うち2箱には白いお餅を15個づつ並べ入れる。

そして、残りの2箱には御三味を9品入れる。御三味とは豚・にわとり・魚のことを指し、当時中国に伝わる三牲(神に供えるいけにえ)が起源とされている食材である。

また、料理の品数をなぜ奇数になるようにしているかは、こちら深いつながりのあった中国からの影響を受けていて、中国では大切な日取りや行いを奇数の日に合わせて行っていたようです。奇数は陽の数字として人々に理解されていたからです。

その御三味の料理の一例は、豚肉・紅白のかまぼこ・魚のてんぷら・昆布巻き・卵焼き等がきちっと詰められてたようです。

今の時代にとっては、なんでもない食材かもしれませんが、当時としては日常で食べる機会はほとんど無かった内容だと思われます。

また、重箱に各料理を詰める祭のルールのようなものもあったようです。ただ詰めるのではなく、重箱中央に昆布が来るように詰め、各料理をなるべく正方形になるように詰めていきます。

正方形の重箱に対し、9品分の正方形が中に形作られるようにしていました。

以前は各家庭で料理を用意する家庭が多かったですが、近年ではお店に頼んだり、オードブルを持ち込んだりと様変わりしてきた一面もあります。

時代も変化しますので、ご先祖様たちも細かくはこだわらないでしょう(笑)

この清明祭に関しては、島の人々にっとって寂しい行事ではなく、ご先祖様への感謝と繋がる一族の今後の繁栄を祈願するもので、楽しい宴であることは間違いありません。

新暦のおよそ4月ぐらいに行われますが、広い亀甲墓で人々が宴をする光景は、ちょっとした西表島の風物詩のような役割になっているのかも知れませんね。

女性の節句、旧暦三月三日は浜でお清め手足を洗おう!

新暦では、3月3日はひな祭りで女の子の節句ですね。

多くの家庭で雛人形を飾り、お団子や雛あられなどを食べて、健やかな成長を祈願する行事で浸透していますね。

これは古く江戸時代から行われていた行事ごとだという記述が残っています。当然当時は太陰太陽暦、いわゆる旧暦の3月3日に毎年行われていました。

しかし、明治以降、新暦にこよみが切り替わると、今のように新暦のこの日に行うようになったのです。

では、旧暦に合わせた行事が今も数多く残る西表島はどのような内容で行われているのでしょう?

旧暦の3月3日の島の人々の一日の生活を見てみましょう。

この日は旧暦上、一年を通し潮の干満差が一番大きく、最干潮の時間帯になると浜からの海水は一気になくなり珊瑚や岩礁がむき出しの状態になります。

その自然現象を利用し島の人々は、取り残された魚やタコ・貝類・海藻などの貴重な海の幸を捕獲するため海岸を練り歩きます。

そして同時に浜にご馳走を持ち寄り、女性たちは手足を海水で洗い、身を清める行為を行うのです。

これを”浜下り”と呼び、女性にとっては大変重要な日になっています。旧暦の女子の節句の大切な行事です。

現在では、家族や親しい友人たちと共にご馳走を持ち寄り、ピクニック気分のような少し楽しく娯楽的な要素を含むイベントになっていますね。

また、確保した食材をそのままビーチでBBQ感覚で頂くといった光景も各地で見られます。

持ち寄る食材は、昔と現在は大きく違い、食生活の変化に伴い手軽な内容になってきたことは間違いありません。食べやすくお子様たちが喜びそうなお弁当のようなスタイルで持参することも多くなってきているようです。

では、遥か昔から行われていた浜下りですが、当時はどのようなものを浜に持参し食していたのでしょう。中身をご紹介していきましょう。

当時、浜下りの際に持参する重箱には、とても華やかな内容のものが詰められたとされています。やはり女性の節句という事もあり、仕込みをする女性たちにも力が入っていたかもしれませんね。これは私の勝手な予想ですが…。

しかも多くの記述を見てみると、四段一組の重箱が使用されていたようです。とても豪華ですね。

それぞれの段の中身の一例を挙げてみましょう。

一段目…結び昆布・ごぼう巻き・花いか・魚のてんぷら・かまぼこ・紅白の地豆
二段目…赤米おにぎり
三段目…三月お菓子(サングワチグワーシ)
四段目…ヨモギ餅(フーチムチ)
※()は島の呼び名・方言名

すべての家庭が上記の中身であったわけではありませんが、かなり内容に凝ったものが多かったようです。

いかに女性たちを大切にしていたかも伝わりますね。

おまけの話になりますが、海辺の砂に身を清める浄化的な存在とする考え方は、古くから各地にあり、寺院などに白砂を敷き詰めたりするのはその表れだったとされています。

南国の燦燦ときらめく太陽の下、女性や子供たちが楽しむ姿を想像するだけでなんだか楽しい気分になることができますね。

生まれ年は厄年!生年祝いみんなでお祝いして厄をふり払え!

西表島では、生まれ干支にあたる人たちのお祝いを行う風習があります。

生年祝い、島の言葉で「トゥシビー」といって、数え年で13歳に初めて行い12年に一度巡るたびに続いていく行事です。

ということは、毎年行われているわけで新暦の年明けに開かれるのが一般的になっています。

これは、生まれ干支になる一年は”厄年”にあたると考えられていて、当事者の無病息災を祈願した行いであります。

本土ではなかなか聞かない風習であるかと思いますが、数えで61歳になる年の還暦祝いが唯一「トゥシビー」の祝いと重なります。

長寿になればなるほど盛大にお祝いが行われ、さらに長生きしてもらうように祈願します。

西表島では、新暦の1月2日に各地区の公民館が主催して行われれるのが通例になっています。

その年によってお祝いされる人数はもちろん変わってきます。多いときでは小さな集落でも20以上が生まれ年にあたる年もあったようです。

上座に一列に並んで座り、地域の人たち全員から祝福されます。

お正月休みのタイミングですねで、島外に生活の拠点を置いている島出身者も里帰りし、参加します。

会場である公民館も普段と違い華やかに飾り付けをされ、お祝いムードを演出します。テーブルには泡盛、ジュース、お刺身やオードブルなど豪華な食事も用意されます。

お祝いをされる側には各重箱料理が用意され特別な内容の料理が与えられます。中身の例は後ほど紹介しましょう。

宴が始まると、生年メンバーが一人一人紹介され、順場に挨拶し感謝の気持ちを伝えていきます。

そして会場に作られたステージでいろいろな余興が行われ、さらに場は盛り上がっていきます。

婦人たちによる伝統の八重山舞踊、三線による弾き語り、青年たちによる創作コントや踊り。とにかく大きな笑いに包まれます。

生まれ年の厄もきっとどこかに吹っ飛んでいくことでしょう。

それでは重箱料理の中身を一例ですが見てみましょう。

・赤米(赤飯)
・昆布料理
・葉野菜のおひたし
・お芋のてんぷら
・田楽
・砂糖にお豆
など、食材的には少し質素なものも多く使われますが島の恵みを使った縁起のよい仕上がりになっているといえます。

地区によっては地域の新年会もかねて開催されるところもあり、より一層の大イベントになります。

時代の風潮として、本土などでは家族単位で行うお祝い事も多い中、西表島では地域の人たちみんなで祝福するという古き良き風潮が消えることなく続けられています。

島で生まれ育った人たちは、先祖や家族はもちろんのこと、地域に育てて頂いたという感覚も強く持っており故郷を愛する心が深いような気もしますね。

それは生年祝いのような地域みんなで行う、暖かい行事が多く残っているということも理由の一つでしょう。

人口も少なく、学校の生徒数も本土に比べると極端に少ない現状があり、高校が無いため中学を卒業すると島を出なくてはならない限られた生活の中で、地域の人間の心あるつながりが、立派な大人へと導く道しるべとなっていると思います。

祖先の霊を楽しくお出迎え!大迫力の演舞エイサー集団

エイサーとは、古くから行われてきた沖縄伝統芸能の一つです。お盆の時期にあの世から迎え入れた先祖の霊を再びあの世へ送り返すために踊られたのが始まりとされています。

歴史的な起源は明確には解明されておらず、いくつかの説に分かれているためここでの断定は遠慮しておきます。

統一された型があるわけではなく、各地域の青年会や伝統に赴いたかたちがとられています。

大人数で隊列を組みながら、三線・歌・太鼓・踊りなど大迫力が見たものを魅了します。

西表島では特に、上原地区に当たる地域が盛んに行っており、島の各所で行われる行事ごとやイベントでは、日頃の訓練成果を発揮している。

また、沖縄だけにとどまらず、日本全国にいる郷友会のメンバーを中心に広がりを見せています。

基本的な戦列の役割を見ておきましょう。

地方…三線を弾きながら、全体のテンポをリード。

大太鼓…三線の音を頼りに音頭をとる重要な役割。

男手踊り(イキガモーイ)…エイサー踊りの基本。空手の型が慣わしといわれる。

女手踊り(イナグモーイ)…力強い男手踊りに対し、緩やかな手さばきで戦列に華をそえる。

旗頭…戦列の顔とも言えるかなり重さのある旗をテンポ良くリズムに合わせて上下に動かし、全体に迫力を増す。

一般的には上記のような戦列が組まれています。踊りの内容や形はオリジナルのものも多く、各チームで盛り上げ方もそれぞれである。

使用される楽曲も伝統的なものに限らず、踊りやすいテンポの良い曲や直近のヒットチャートから使用される機会もおくなって来ています。

また、このような歴史ある伝統芸能を先輩たちから学び、仲間同士で行うことで地域の強い結びつきも作られています。

年に一度沖縄本島のコザで(沖縄市)、全島エイサー大会が行われ日頃の成果を披露する場もあり、全国から来る観光客を喜ばせています。

西表の現状としては、島に住む県内外出身の若者たちが結成する青年会が、それなりの経験と技術のある人間からエイサーを学び、各所で披露している。

その際、頂くお礼の品々(お金やお酒)を日頃の青年会活動の資金源にし、組織を運営しているのです。

やはり観光にこられた方々や沖縄好きの方からは特に人気もあり、「やっぱり、沖縄はエイサーでしょ!」というぐらい全国、または全世界に認知されつつあります。

これも近年急速に認知されるようになってきているのが現状です。

西表で生まれ育った子供たちは、小学校の授業で習い始め、運動会などで披露している。

島に住む人々、老若男女問わず楽しみにしている演目であり、青年たちによる大迫力のエイサーとは違い、可愛らしく見ているものの心を癒してくれる出来上がりになっています。

民謡的な踊りと違い、手拍子をしたり大きな声で応援したりと畏まらずに見ている側も楽しみながら、参加しているような気分にもなれます。

現在では、TVやyoutubeなどで閲覧可能ですが、一度西表に足を運んでいただき生で体験していただくことをオススメします。

重要無形文化財!西表島最大の伝統神事行事、節祭り

西表島には歴史ある行事が多く残っています。

その中でも特に歴史があり、島人にとって非常に重要視されていたのが節祭りであります。

節祭りは、八重山諸島をはじめ、県内では広く行われてきた伝統ある行事の一つです。

西表島では、祖納・干立・古見の島内でも古い歴史を持つ集落でのみ伝承されてきました。

正確な資料は残っていませんが、500年以上前から続いてきた神聖な行事だとされています。

1991年には国の重要無形民族文化財の指定を受けており、さらに価値のあるものになってきました。

節祭りは、季節の変わり目や一年の切り替わりの時期に行われ、豊作への感謝と来年の五穀豊穣を祈願する内容である。

時期は、旧暦の10月前後の己亥の日におこなわれます。よって新暦では毎年の日時は定まっていません。

三日間行われ、中日の二日目には伝統芸能や踊り、狂言、獅子舞、サバニ漕ぎなどが披露され、神やご先祖への感謝と豊年祈願が納められます。

この中でも、ミリク行列と呼ばれる催しは人気があり、白い微笑みのお面をかぶりあざやかなオレンジ色の衣装を身につけ、左手に杖、右手に大きな団扇を持っていて多くのお供を引き連れて歩きます。

ミリク様は、信仰のある神の理想郷”ニライカナイ”の地からやってきて、人々に幸をもたらす神であると崇拝されていて、五穀豊穣・子孫繁栄を祈願する。

さらに、干立集落ではミリク様に加え、異国からやってきた異人を演じる”オホホ”と呼ばれる役柄も登場し、会場を盛り上げています。これはこの集落のみで演じられる演目ですので、とても人気がありますね。

古くから行われている節祭りは、島人にとっては本当に重要な位置づけにおかれています。聞くところによると、自分の親の葬式をずらしてでも参加する行事だとされているような風潮もあるようです。

島を出て、離れたちで暮らす集落出身者も、このときには学校や仕事を休み帰島して参加します。当然新暦では休日でも何でもありませんので、伝統を重んじる重いがさせる好意ですね。

当然現在では、この祭りを生で見ようと国内のみならず、世界各国から人々が訪れます。カメラやビデオを片手に祭りを見物し楽しんでいます。その為少し見せ物ような雰囲気の中、祭りが進行していく様もあるようです。

しかし、この祭りは500年以上の伝統があり、集落の人口も少なく外部の情報など全く無い歴史の中、厳粛にまた神聖なものとして行われてきました。

そして幾度の存続の危機を乗り越えながら後世に受け継がれ、現在に至ることにとても尊いものを感じることができますね。伝統とは本来そういったものなのでしょう。

この集落に移り住む本土からの人々にも、中身と意味をしっかりと伝承し政を永遠のものにしていきます。

一度機会があればこの時期に合わせて現地を訪れ、言葉には言い表すことのできない雰囲気や島人の真剣な表情を見て、歴史ある伝統行事を全身で感じて頂きたいなと思います。


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あの世とこの世繋いで共に祝おう!伝統祭りだ十六日祭!

旧暦の1月16日はあの世のお正月といわれています。

この世のお正月同様、盛大にお祝いするのです。これも先立ったご先祖様への供養の一環とされています。

先祖代々続くお墓へ、家族、親戚一同で訪れ、豪華な料理、泡盛、お花などをみんなで持ち込み宴を始めます。

三線を弾き、歌ったり、踊ったりとみんな楽しく過ごします。そうすることにより、ご先祖様たちが残された子孫たちを安心してこの世に預けられるという言い伝えがあります。

また、ご先祖様たちがあの世でお金に困ることの無いようにするために、”ウチカビ”といって、あの世のお金に見立てた紙をみんなで燃やします。

このウチカビは、西表島の商店なんかでは必ず売っています。面白い風習ですよね。

しかも、この行事は西表ではすごく重要視されています。

旧暦の1月16日に毎回行われているため、当然平日になったりすることもあります。しかし、地域によっては会社や学校がその日は午前中で終了したりするんですよ。凄いですね。

いつからこの風習が生まれたかというと、年代までは分かっていませんが、古く琉球王朝時代にあったとされています。

その時代、王朝に勤める家来たちは新年を迎えて王族たちのお正月の行事やお世話で慌しく過ごします。

おおよそ年明け15日ぐらいまで続くそうです。そして、そのお役目が終わってからやっと自分のご先祖様のお墓参りができたそうです。それが16日だったということです。

それでは、この十六日祭ではどのような料理でご先祖様の供養を行っていたのか当時のメニューを見てみましょう。

通常このような行事の時には、お餅と”御三味(ウサンミ)”と呼ばれる重箱に詰められた料理が用意されます。

重箱の中身はというと、豚肉・かまぼこ・昆布・豆腐といった昔ながらのご馳走が敷き詰められています。本来の御三味は文字通り三つの味を表しており、牛・羊・豚、あるいは豚・にわとり・魚といった食材を指す。

これは中国の三牲と呼ばれる、神に供えるいけにえの食材が起源となっているようです。

味付けはいたって薄味で仕上げるのが主流であります。食材は今の時代では特に高価なものではないかもしれませんが、以前はなかなか常時手に入れ難いものであったと予想されます。

出来上がりの見た目も、特に華やかに飾りつけもせず、無彩色が多いですね。

墓前に集まり、豪華な中身のお重を並べご先祖様の供養をする。さぞかしご先祖様たちも喜んだことでしょう。

また、後世を生きる子孫たちもこのような大切な年中行事の時にしか、食すことができないご馳走を目の前にしてとても幸せを感じることのできる時間だったのではないでしょうか。

沖縄本島などにも行う家庭はありますが、特に宮古島、石垣島を含む先島諸島では盛大に行う風習が根付いているようです。

これからも島に生きる人々のご先祖様に対する敬意が続き限り、毎年旧暦の1月16日には墓前で盛大に行われていく大切な行事であることは間違いないでしょう。

祝いムードは中国に負けない、旧正月は親戚一同集まり盛大に

沖縄本島、各離島を含む地域は古く琉球王国時代、中国からの文明の影響を多く受けてきた歴史があります。

西表島も例外ではなく、現存する多くの行事などは中国で作られたとされる旧暦に沿って行われています。

1972年正式に日本国に返還され、新暦一本化された以降も旧暦行事の多くは根強く残り、行われています。

その代表的な旧暦行事の一つ、旧正月を今回は見ていきましょう。

旧正月、いわゆる旧暦の1月1日にあたる日ですね。

旧暦は月の運動を参考に作られており、1日つまり新月を物事の始まりとし、大切にし生活を行ってきたのです。特に海人たちはこの旧暦を重んじてきた傾向が強いですね。

現在はTVの報道などで、中国の旧正月の模様が流れることがあるかと思いますが、爆竹や花火といったお祝いをしていますね。ここ西表でもやり方こそ違いますが盛大にお祝いをしています。

しかし、島の現状を考えると内地(本土)からの移住者も多く、旧正月を正式に祝う地域は限られてきたことも事実です。

では、島の旧正月の過ごし方を覗いてみましょう。

旧暦の年の瀬から準備に入ります。新年用のお供え物や飾り付け、昆布まき等の縁起物の下ごしらえなど、新たな年を迎える為の心構えも行います。

先祖代々のお墓の掃除や仏壇のお供えも行います。

新年を迎えることは、やはりめでたいことですので正月料理も豪華なものになります。スーパーや市場などにも普段は並ぶことない珍しい食材や料理が数多く見られます。

島のそれぞれの家庭により細かなお祝いの仕方は違いがありますが、地域によっては特に盛大に行います。

亀甲墓と呼ばれる、沖縄独特の大きなお墓の前に正月用の豪華な料理を持ち込み、家族や親戚が集まりお墓の前で宴会を行います。

まず、本土ではありえませんが、先立たれたご先祖様と一緒にお祝いをする精神が島の人々には残っているのです。

三線を引き、歌ったり踊ったりと島酒とともに宴は続きます。

現在の新暦とは曜日などが合わないため、旧正月が平日にあたることも珍しくはありません。しかし、島を離れた子供たちの中にも、この旧正月に合わせて帰省することもあるようです。

それぐらい意識としては重要な日に置かれているのでしょう。

自分のお墓の前で、残された子孫たちが明るく楽しく正月を祝う姿を見れてさぞ良い気分になると思います。

ここで、我々が過ごしてきた一般的なお正月といえば「お年玉」ですよね。

島の子供たちは旧暦と新暦両方の正月で、お年玉をもらうのでしょうか?

これは、以前は旧正月にお年玉を渡すことをやっていたそうですが、やはり新暦の正月に合わせて渡す家庭が多いようです。

今でも旧正月に合わせて帰省する子供たちにそのタイミングで渡すこともあるようですが、基本的には同じ人からは一回だけですね(笑)

こういった意味でも旧正月そのものの行いが、薄れていく傾向にあるかもしれませんね。

今後も昔からの島のリズム”旧暦”で行われる新年のスタートが受け継がれていくことが、島の文化の継承の大切な役割の一端を担うことになるでしょう。

豊漁祈願!チーム一丸真剣勝負、伝統ハーリー競争!!

西表島は云わずと知れた360度見渡す限り海に囲まれた孤島である。

当然、人々の生活と海は切っても切れない関係にあります。

人々は海から頂く恵みによって繁栄を築いてきたことは間違いありません。

沖縄の方言で、漁師さんのことを”海人(うみんちゅ)”と呼びます。この海人を中心に海からの恩恵をもらい感謝し生活してきたわけです。

また、海はとてつもなく恐ろしいものに変わることもあります。台風や津波、そういった一面も持ち合わせていることを島の人々は理解しています。

そして一年に一度、その年の豊漁に感謝し、航海への安全を祈願する行事が行われています。

海神祭と呼ばれる、歴史ある伝統行事です。

古くは、沖縄本島が発祥の行事ですが、石垣島を中心とする八重山諸島へ移民した海人が伝えたとされています。

また、方言で”ユッカヌヒー”と呼ばれています。

行われる時期は、毎年旧暦の5月4日と定められています。ちなみに今年2016年は、6月8日が旧暦の5月4日にあたるためその日に行われます。

西表島では、島の西側にある白浜集落という地域で毎年盛大に行われています。。

この地域は以前から海の漁が盛んであり、現在でも島の中では海人が一番多く暮らし、漁の拠点としています。

しかし、昔と違い、全体で見る海人の数は激減しています。それは、多くの理由がありますが代表的なのは環境の変化が大きいといわれています。

魚が獲れなくてはやはり生活も困難ですから、後継者が増えていかないという現実があるようです。

この海人の祭り海神祭のなかでメインのイベントが、沖縄地方で古くから使用されている”サバニ”という木造漁船を使ってレースを行うハーリー競争です。

この船は、当時は漁だけでなく、川を渡るときや島と島を移動するときの手段や荷物の運搬などにも使用されていたようです。

造船方法としては、一本の木をくり貫き船の形にしていたようです。現在ではその技術を持った職人さんが少なく、大変貴重なものになっています。

西表白浜海神祭では、1チーム11名(うち船頭さん1名)でメンバーを組み、レースに参加します。

この船の推進方法は、エークと呼ばれる櫂を一人づつ持ち、呼吸を合わせて櫂で漕ぐことにより進みます。

祭りが近づく10日ほど前から、毎日のように夕方から日没まで各チームの練習が行われます。この時期になると集落いっぱいに各チームがエークを合わせて漕ぐ掛け声が響き渡ります。伝統ある風物詩のようになっています。

さすがに、女性メンバーだけのチームでは優勝することが難しいですが、近年では毎年参加する女性チームも増えてきているようです。

やはりどのチームも優勝を狙って練習をし本番にピークを合わせてくるのですから、レース当日は会場全体が白熱した状態に包まれます。

毎年の伝統行事になっていますので、メンバーの島人にとっては頭から離れることはないでしょう。

また団体競技ということで、メンバーやライバルたちとの称え合う心も、このレースの醍醐味ではないでしょうか。

優勝した暁には、海人の行事らしく、メンバー全員でも食べきれないほどたくさんの海の幸が寄贈されます。

島の泡盛とともそれを肴に、健闘を称えあい、朝まで勝利の美酒に酔うことでしょう。

こうして海の神様に感謝し、命の恵みに感謝し、新たな一年を迎えていくのです。