移民の歴史を振り返る、血が繋ぐ集落発展の歴史を紐解く

沖縄県西表島。面積289.61㌔平方メートル、沖縄県内では沖縄本島に次ぐ2番目の広さである。

西表島・竹富島・鳩間島・黒島・小浜島・波照間島・新城島・由布島の有人島といくつかの無人島からなる沖縄県八重山郡竹富町に属す島です。

人口は約2,500人。島全体の90%が亜熱帯の自然林であり、起伏に飛んだ地形で海岸付近以外はほとんど平野は無い。

客船が入港する港は2つあり、西部地区の上原港、東部地区の大原港である。

現在集落は、西部地区は船浦・上原・中野・住吉・浦内・干立・祖納・白浜・船浮の9つ。東部地区は、豊原・大原・大富・古見・美原の5つである。

地場産業といえるものは少なく、パイン・マンゴーなどの果実類、サトウキビを原料に黒糖などといったものがあります。

国の特別天然記念物の指定を受けているカンムリワシやイリオモテヤマネコ、天然記念物のセマルハコガメ、サキシマハブなどの貴重生物が存在する。

生活者の多くは観光関係の職に属しており、島を取り囲む海や奥深い大自然が世界からの観光客の呼び込む要因になっている現状がある。

島の位置からして、毎年台風の通り道に存在しているため、夏から秋の間は毎年被害が少なくありません。

しかし、台風慣れしているせいか、大型台風が通過する割には人的な被害はほとんど無く、やり過ごしている。

現在では、人口的な面で見ると大幅増加や減少は見られず、ほぼ横ばい状態が続いている傾向がある。

春先から夏の終わりまでの観光トップシーズンには季節労働者も全国各地から集まり、一時的な人口増加は通例のことである。

では、現在に至るまでの西表島の歴史を見ていきましょう。

もともとマラリアなどの健康被害により人間が生活を営むのに不適であったため各集落としての歴史は非常に新しい。

唯一現存する、西部地区の祖納と東部地区の古見の2つの集落だけが例外である。

一旦は人が住み着いたが集落自体発展にいたらず廃村になった集落もいくつかあったようです。

古見集落では、1678年に造船所があり、一時は1000人近い人々が暮らしいたという記述も残っている。今から340年程以前の話である。

琉球王朝時代には、祖納集落が政治の中心であり周辺の離島にも力が及んでいた歴史もある。

1800年代後半には、本土からの企業が炭鉱発掘事業の一旦で島に労働者を多く送り込んだが、こちらもマラリアの被害で、数年で撤退に至っている。

1900年代前半、第二次世界大戦末期ごろにも、石垣島や波照間島からの強制疎開が行われたが多くの住民が再びマラリアに感染し死亡。これにより島全体に対しての計画的な開発が中断するに至った。

結果的に島の貴重な自然が保護される形になった。

医学の進歩や環境的な変化に伴い、今から70年ほど前から宮古島からの本格的な移民が島に訪れるようになり、荒れ果てた土地を開発。

何もな無かった土地に家を作り、集落を形成し、農作物の生産を開始し生活の幅を広げていったようです。

現在存在する集落に古くから住む家の住人たちは、その時代移民したものの2世が多く、各政の中心になっています。

何も無かった土地を自分たちの手だけで掘り起こし、簡単ではなかったはずの島の発展につなげた宮古島の「アララガマ精神」は今も子孫たちにより島の発展を支える重要な役割を担っている。